
映画少年であった梶俊吾が中学2年の誕生日に『キングコング』(76年版)を見て将来映画監督になることを決める。中学3年の時に父親にポルノ映画に連れて行かれ、初めて女の股力を知る。高校卒業後、日活撮影所内にある監督養成所にて2年間映画製作を学ぶ。その時初めて日活ロマンポルノの撮影現場を目の当たりにする。
学校の実習で日活のAVメーカーの現場にて助監督をする。ライトが煌々と輝く中で、女優と男優がセックスするのを見て酸欠状態になったり、セックスしてるソファーの後ろに倒れこんで寝てしまったりして「馬鹿野郎!」と一日中怒られっぱなしだった。
18歳の私にしては刺激が強すぎたのだろう。
日本最大の撮影所が女の股力で生計を立てているのを目の当たりにし、また当時日本映画が完全に斜陽化していたため4畳半に暮らしながら映画監督になるチャンスを待つよりは女の裸が一番金になると知る。
周りの養成所仲間から「若いくせになんて汚い考えなんだ!」と罵声を浴びる。
最初の仕事の依頼は、新宿歌舞伎町で8ミリ自主映画を撮影中、ポルノ店から出てきた店長が

「君たち、何を撮っているんだ?」
「学生の自主映画です。」
「それならウチは8ミリポルノ映画を売ってるんだが洋モノばっかりで和モノが2本くらいしかないんだよ、100万円あげるから8ミリポルノを制作してくれないか?」
と依頼を受ける。
私はやりたかったのだがみんなに反対され、最初の仕事を断念せざるを得なかった。
その後、養成所の女の子を使い自主制作AVを作った。
日活の社員助監督から「映画監督になりたいんだったらこれから目の出る女優を探しヒモになるしかないぞ。」と言われ、卒業後全く関係のないホスト業に身を落とした。
これは言い訳だが「監督になるにはまず女を知らなければならない」「女に背中を切られるくらいじゃないと一人前じゃないぞ」などと自分を慰めた。
ホスト業で客として知り合った女の中に「これからAVデビューするけど 怖いので撮影に同行してくれない?」と頼まれ、それがきっかけで再び映像の世界へ舞い戻ったのである。
「寄り道してもやはりこの道に引き戻されるな」とこのとき思った。
最初に作った会社がオフィスパピヨンで当時フリーのAVギャルがたくさんいたのでその女たちを深夜のエロ番組にキャスティングするのが仕事だった。
ある時、ある女がドタキャンをしてテレビ局のプロデューサーから「二度とオフィスパピヨンの名ではテレビ界で仕事をできなくしてやるぞ!」と脅された。
これからはフリーのAVギャルではなく、自分でスカウトして育てることにした。

次の会社名は カジプロダクション である。
単体女優しか扱わず、女優の名字に必ず『梶』を入れることからすべて梶俊吾の女なんだろうとAV業界では誤解された。
単体女優はギャラが数百万だし、うまくいけば一つのメーカーで6本〜10本契約、最高に美味しい仕事だ。それも面接してからオーナープロデューサーの鶴の一声で決まるまで、5分と経たなかった。
ある日撮影が終了した女優から、廃工場跡で撮影したので足の裏に付いた汚れが取れないと夜中の2時ごろ泣きながら電話があり、急いで駆け付けて女の足の裏をゴシゴシと洗っているときに「オレは女はナンパできても女の管理はできない」と感じ、この仕事から足を洗うことを決意した。
知り合いのナンパ師から「週刊プレイボーイでナンパ企画があるが出演してくれないか?」と頼まれ新宿・渋谷・原宿・六本木にて2時間で何人の女の電話番号を聞き出すかというものだった。
この企画はウケにウケ、全六回に及んだ。編集長からは「君たち知ってる?週刊プレイボーイを買って真っ先にお客を開くページが君たちの企画だよ。」
この情報を嗅ぎ付けたあるAVメーカーから「ナンパAVを作ってくれないか?」との依頼があり、これが日本で最初のナンパAVとなった。
後にこのシリーズは男優の島袋浩に引き継がれ、ギネスブックに載るまでのスーパーヒットとなった。
その頃、ナンパ友達から「ナンパ代行業をやらないか?」という誘いがあり、またまた週刊プレイボーイを賑わすことになる。
これが日本で最初のナンパ代行業である。

一緒にナンパAVを作ったAVプロデューサーと株式会社ディレクターズシステムを作る。
四畳半の西新宿のボロアパートに看板を掲げ、ちゃぶ台をデスク代わりにAVメーカーの下請け制作を開始。ナンパAVは機動力と足が勝負なのでホームビデオを片手に町中を走っている姿を見て他のAV監督たちは「ホームビデオを担いであのバカは何を撮ってるんだ?」
それもそのはず他のAV監督は皆、きれいなスタジオの中できれいな姉ちゃんをぬくぬくと撮っていたのである。
ある時、AV問屋の社長から電話が入り「直接話したいから自宅に行ってもいいか、大切な話がある。」という。内容は360億円持っているオヤジが日本一のAVメーカーを作りたいと言っている。制作部長の席を用意しているので今の会社を捨てて準備に入ってもらいたい。給料・ボーナスの他に年間純利の数%をくれるという美味しい話だった。
私はその日のうちにOKを出した。最初の準備金は5000万円だった。最終的に1億2500万円、二本リリースから販売を開始した。

「村西とおるに勝てるか?」と言われたが、「あの人はもう梯子の上にいる人。私はいつになっても下ですよ。最終的な目的が違うから、村西さんはAVだけど私は映画だから、勝つことはできないです。それでも良ければ。」
二年半後、退社し会長に貸していただいた準備金で株式会社ホットエンターテイメントを設立。
もちろん金利は取られたが。